2008年6月 5日 (木)

「言志録」 23

 草木を培養して、その生々発育する気運の微妙を観察すると大いに得るところがある。(志さえあれば)何事でも修養の資料になるものだ。(57)

 この項の「付記」に、次のようにある。
  自然現象を観察することも活きた学問であることを教えたもの。「彼の細井平洲が、『人      を教育するは菊好きの菊を作るが如くすべからず、百姓の菜大根を作るが如くすべし』といえるもまたこの草木培植から得た一つの学問である。」
 菊作りのようにしてはいけないということはどこかで読んだことがあるが、今は思い出せない。昔、小学校の頃を思い出すと、各学級に花壇があって、そこで草花の面倒を当番でやったことがあった。今の小学校ではどうなのだろうか。
 ちょうど今頃が田植えの時期のせいもあって、学校に田んぼを作って子供に田植えをさせているという様子が、ニュースで紹介されることがある。米という字を分解して、八十八。米作りには88もの手がかかるといわれ、その大変さが強調される。そういう意味では、学校が、自分たちの主食の米を作る体験をさせるのは、大変意義があると思う。ニュースとしては、子供が田の中で泥にまみれながら苗を植えるのは取り上げるが、それ以後どんな世話をし、収穫をするのか、このことはなかなか紹介してくれない。きっと感動的なドキュメンタリーができるのではないかと思う。ただし、生育途上の世話を子供たち自身が担わずに、専門家に委託したり、保護者が肩代わりしたのではだめだが。
 小学校6年のときの体験で、先生の優れたご指導だと思い出すことがある。それは、校庭で大豆を栽培し、収穫した大豆を使って醤油を作って、その醤油を使って炊き込みご飯を食べるという長期的で多様な経験内容を含むカリキュラムだ。今のように教科の枠にとらわれていてはできない内容だろう。

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