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2008年11月23日 (日)

「言志後録」 3

 子弟の傍らにいてたすけ導くのは教えの常道である。子弟が邪道に入ろうとするのを戒めさとすのは教えの時を得たものである。自ら率先し実行して子弟を率いるのは教えの根本である。何事も口に言わずに子弟を教化するのは教えの霊妙な極致である。一度抑えつけて、そしてほめ、激励して道に進ませるのは、教えの一時的な方便であり、臨機応変の方法である。このように、教えもまた幾多の方法があるものである。(12)

 この項の「付記」に、この内容を分かりやすく図表にしてまとめている。
 最初の一文は、平素の指導として「個性に従って指導する」ことを示し、次の一文は、臨時的には「邪道に入るのを警戒する」ことを示して、これらを指導の基本、「法式」としている。次に、手本を示して率いる「実践的」指導と暗黙のうちに導く「感化的」指導とをあげている。以上を「正道」とし、最後に「一時的」な指導として臨機応変な対応をあげている。
 さらに、「付記」では、山本五十六の有名な言葉「やって見せ、言って聞かせて、させて見て、ほめてやらねば、人は動かじ」を紹介している。
 教育とか、指導とかの基本、原則を言っていると思う。技術や効率も不要ではないが、それ以上に、指導する立場の者の感化力、人格が問題なのだと思う。そして「時間」が必要なのだと思う。学校の先生にしても家庭における親にしても任意なグループのリーダーにしても同じことだ。

2008年11月16日 (日)

「言志後録」 2

 すべて教は外から入ってくるものであり、工夫は自分の中から考え出すものである。それで、自分の内から考え出したものは、必ずこれを外で験して正しいことを実証すべきである。また、外からの知識は、自分でその正否を検討すべきものである。(5)

 この項の「付記」にも書いてあるが、自分の内から湧き出てくるものは、いわゆる「知恵」である。あるいは「アイデア」か。「付記」では、「知恵を磨くことを忘れて、知識ばかり増やそうとする現今の風潮は、誤るも甚だしい」と言っている。
 私にも大いにその気があり、知識をうのみにしがちだ。特に近年のように情報過多な社会では、まずは取捨選択して受容し、できれば一斎が言うように正否を吟味して、正しい知識を自分の中で咀嚼する。そうすることによって、優れた「知恵」が生まれるんだろうな、と思う。とてもそんなことはしてはいられない。
 しかし、自分の内から出る「工夫」は、大事だと思う。これは、受け入れたものを「自分流」にすることだ。自分の血や肉にしたことの証明だと思う。

2008年11月10日 (月)

秩父ミューズパークの紅葉・黄葉

 今日、妻と秩父ミューズパークに行ってきた。ニュースで紹介されていたように、素晴らしい紅葉だった。Cimg0214 銀杏並木の黄葉もカエデ、モミジなどの紅葉も今が盛り。
 あえて車で行かずに、電車で西武秩父に行って、駅前5番乗り場から「ぐるりん号」という巡回バスに乗った。これが正解。というのは、車で行くと駐車場の利用は無料だが、車を止めたところまで戻ってこなければならない。
 展望滑り台で下車して、南口まで約4キロをぶらぶらと景色を愛でつつ約2時間歩いてたり休憩したりして南口まで来て、そこからバスに乗って駅に戻ってきた。車でなければ、一方向に行きたい所まで行けるのがいい。子供の遊び場としても我々高齢者の散策の場としてもいい。
 食事を心配して、コンビニでおにぎりを買っていったが、公園内にも食事をできるところがあった。ステンドハウスという所で山菜そば(400円)を一つとって、二人ですすりながらおにぎりを食べた。スポーツの森エリアには、大きな食堂もあるようだった。
 夏はコテージやプールその他のスポーツ施設の利用者で賑わうことだろう。その季節には行ってみようとは思わないが、春から初夏、新緑の頃にはもう一度行ってみたいと思う。おそらく、今日の紅葉・黄葉に劣らない美しさを堪能できるに違いない。

2008年11月 8日 (土)

「言志後録」 1

 前回まで「言志録」を44回にわたって書いてきたが、今回から「言志後録」を取り上げる。

 「言志録」の1や15のときに書いておいたように、これは江戸時代の佐藤一斎の「言志四録」を、十数年前、あるいは二十年近く前に読んだ際に、心に残る章段を抜き書きしておいたものを、いま読み返しながら所感を書きつけているものである。「言志録」が「四録」の一、「言志後録」がその二である。

 人が自ら励み一生懸命になっている時は、その心は光に満ちて明るく、少しもつまらない考えとか遊ぼうとする気持ちはなく、また心にかかるわずらいや気にかかる思いなどはないものである。(3)

 ある一事に全身全霊を集注しているとき、当人には邪念はおろか他の何ものにも心を向けることはない。その姿を見る者は、美しいまでの神々しさに、心を奪われる。
 幼児の遊びに熱中している姿、甲子園の高校野球の熱戦。こういったものに心を奪われるのは、そういうことだ。しかし、熱中するのが一事というわけにはいかないのが実生活で、そうこうしているうちに、どれにも熱中できない大人になってしまう。稀には芸術家などのなかに、一事を追求する者がいるけれども、相変わらず一事に集中している者の多くは、○○馬鹿と言われるはめになる。

2008年11月 4日 (火)

「言志録」 44

 物がひとつふえれば、やることが一つふえる。やることが一つふえれば、わずらわしさがふえる。(219)

 ある書物に「人は皆、少なきの憂ひたるを知りて、多きの憂ひたるを知らざるなり。ただ、智者のみ多きを憂ふ。」とある。これと同じ。
 若い頃には欲のせいなのだろうか。不足だと思う気持ちが先行して、あれこれと求めて身の回りに置こうとする。しかし、年数がたって高齢にいたると、多くが不要で会ったことに気付いて、それらを処分するのに苦心する。馬鹿な話だと思うが、若い時にはなかなかそれがわからず、実感するのは老齢になってからのこと。若い時からこのことをよく承知して、実生活で生かしている人は偉いと思う。
 昔、ある大学の先生が、書物はできるだけ買わずに、図書館で借りよ。と言っていた。その先生、若いころに、盛んに書物を買いもとめたが、置き場に困って、畳の上に本を敷き詰めて、その上に寝ていたそうだ。
 若いころにその話を読んだが、そういう実感を持てずに、読みたい本や必要がある本を結構買っていた。ところが、現役を退くと、そのうちの多くがもういらなくなって、空間を狭めるだけの邪魔ものになっていることに気づいた。そこで、結局、勤務していたところに寄贈したり古本屋に売り払ったりして半分以上処分してしまった。
 本に限らずいろいろのものが、高齢になってくると、いらなくなって、邪魔になるという感じがする。

2008年11月 3日 (月)

「言志録」 43

 考えてみると、世の中のことでどうして本来悪というものがあろうか。過ぎたり及ばなかったりするのが悪である。また、同様に世の中のことでどうして善というものがあろうか。過ぎたり及ばなかったりしないのが善でる。(205)

 「適当」「適度」ということは、極めて大事だ。その範囲を越えて過度であれば、範囲内であればよしとされるものも、よしとされない。また、その範囲に入らない、足らないようであれば、やはりよしとされない。
 家康が、女中に世の中で最もおいしいもなはなにかと聞いたら、女中が塩だと答えた。最もまずいものは何かと聞いたら、やはり塩だと答えた。これを聞いて家康が感心したというエピソードがある。過不及がなければ美味、あれば不味だということである。
 薬の例などはわかりやすい。足らなければ効かないし、多ければ有害である。適当であるときにのみ、薬用として意味がある。
 「論語」にも、過ぎたるは及ばざるがごとし、と言っている。過不足があっては、よくないのである。

2008年11月 2日 (日)

「言志録」 42

 道理の行き届いた言葉には、誰でも服従しないわけにはいかない。しかし、その言葉に激しいところがあると、聴く人は服従しない。無理に押し付けるところがあれば、服従しない。身勝手な私心を挟むところがあれば、服従しない。言う人の便利を図ろうとするところがあると、服従しない。凡そ、道理が行き届いていると思うにもかかわらず人が服従しないときには、君子は自ら反省するものだ。先ず自分自身が心から服従して、しかる後に人は服従するものである。(193)

 いくら道理が行き届いたことであっても、それを言うときの心の内によっては、聞き入れてもらえない。そういうことを言っている。これはほとんどだれもが経験していることだと思う。説得しなければならないような時などにそういうことを感じる。
 また、言うときの心の状態だけでなく、話し方、話術の問題もあると思う。相手に応じ、相手の心理状態をみて、それに合った話方を工夫する必要があるだろう。しかしあまり技術に走ると、聞き手にそれを見抜かれて、やはり受け入れてもらえないという結果になる。
 やはり、淡白に、邪心なく、真心をもって話すに限る。

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