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2008年9月14日 (日)

「言志録」 35

 聖人は生死を超越しているから、死に対して心が安らかである。賢人は生者必滅の理を知っているから、死を生きている者のつとめであると理解してあわてない。一般の人は、ただ死を畏れて取り乱す。(132)

 この次の段133に、もっとわかりやすく書かれている。
 賢者は死に臨んで、当然来るべきものと考え、死は生者の責任であることを覚悟し、死を畏れることを恥じ、むしろ安らかに死することを希望する。故に、精神が乱れない。また、残された教訓があって、傾聴するものがある。しかし、賢者が聖人に及ばないのも、この遺訓の点にある。聖人は、平生の言動がすべて教訓となるものであって、没する時に特に改まって遺訓を述べることをしない。死生をみることが、まるで昼夜のようであって、特別のものと考えていないのが聖人の死生観である。

 せめて、ここで言っている「賢人」の域に届きたいものである。

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