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2008年9月28日 (日)

「言志録」 36

 人から信用を得ることは難しい。いくらうまいことを言っても、人は言葉を信用しないで、その人の行いを信ずる。いや、本当は行いを信ぜずに心を信ずるものだ。心を人に示すことは難しいのであるから、信を人に得ることは難しいことだ。(148)

 信用を失墜するのは一瞬で、信用を得るのには長い年月がかかる。他人の心を信ずるのが難しく、信ずることができるようになるまでに長い時間がかかるということだ。心の現れが「行い」であり、これは形に現れるので心を読むよりは容易であるには違いないが、それでも確信を得るまでにはかなりの時間を要する。
 「行い」は、必ずしも清心に基づくものばかりではない。邪心に基づくものもあるわけで、それを見極めるのに時間がかかる。それでも、言葉よりは確かなもので、言葉ほど軽いものはない。信用のおけないものはない。
 本来、言葉は信用のおけるものでなければならなかったはずだ。「信」という漢字の成り立ちを見ても、そう言える。人の言は、まこと、「信」でなければならない。言霊信仰の時代には、少なくともそういうものであったのではないか?いつの時代からか伝達手段や社交手段となって、「信」なるものからかけ離れ、軽いものになってきてしまった。

 就任5日で、本心・信念を口走って辞職することになった大臣がいる。国政を預かる大臣が、失言(当人にとっては本当は失言にあらず)で混乱を招くことが、最近多いように思う。上に立つ者は、本心を抑えて、言葉を選ぶ必要があるのに。もっとも、本心に邪心がある者が政治家になったり人の上に立ったりするというのが誤りなのだが。

2008年9月14日 (日)

「言志録」 35

 聖人は生死を超越しているから、死に対して心が安らかである。賢人は生者必滅の理を知っているから、死を生きている者のつとめであると理解してあわてない。一般の人は、ただ死を畏れて取り乱す。(132)

 この次の段133に、もっとわかりやすく書かれている。
 賢者は死に臨んで、当然来るべきものと考え、死は生者の責任であることを覚悟し、死を畏れることを恥じ、むしろ安らかに死することを希望する。故に、精神が乱れない。また、残された教訓があって、傾聴するものがある。しかし、賢者が聖人に及ばないのも、この遺訓の点にある。聖人は、平生の言動がすべて教訓となるものであって、没する時に特に改まって遺訓を述べることをしない。死生をみることが、まるで昼夜のようであって、特別のものと考えていないのが聖人の死生観である。

 せめて、ここで言っている「賢人」の域に届きたいものである。

2008年9月11日 (木)

「言志録」 34

 需という字は雨天を意味する。雨の降る時は、心を静めて待てば晴れるのに、待たないとびしょぬれになってしまうものだ。(129)

 需という字を辞典で引いてみると、もとめる、もちいる、必要とする、待つ、ためらうなどの意味がある。
 この項の「付記」に、太田道灌の「急がずばぬれざらましを旅人のあとより晴るる野路の村雨」と引用して、「気短に処理すると失敗する。こらえて時のよろしきを待つべきだ」と述べている。
 また、次の130段では「急いでは失敗する。落ち着いて忍耐強く好機の至るを待っていれば、目的を達することができる」とある。ことわざにも、「急いては事をし損じる」とある。
 さらに、182段に、「処理の難しい事件に出会ったならば、みだりに動いてはいけない。じっと待って好機の到来するのをうかがって、対応策を講ずるべきである。」と述べている。

 「心がけ」としては大事なことだ。雨は必ず止むとは分かっていても、あわてて雨中をかけて回りがちだ。じっと雨宿りをしていれば、そのうちにやむのだ。しかしそれが、1時間後なのか2時間後なのか、明日の朝なのか、見当がつけられない。天も約束してくれない。そんなものだから、一種のパニックになるのだろうか、駆け出してしまうわけだ。
 心がけとして大事ではあるが、それでも何とかしなければならないことがある。本当に雨のやむまで待っていると、事態が一層困難な状況になるということもある。特に近年、雨がやむのを待っていたために、問題が大きく、深刻になったという出来事が多いではないか。最近の、相撲協会の問題、事故米の問題などもそうだと思う。

2008年9月 7日 (日)

「言志録」 33

 聖人は力強く健康で、病のない人のようであり、賢人は、自ら摂生して病にかからぬように気をつけている人のようであり、常人は体が弱く、よく病気をする人のようである。(127)

 この項の{付記」に、次のようにある。
 本文は三者の精神上の違いを、肉体の病気にたとえて、わかりやすく述べたもののようである。すなわち、聖人は健全で心の病がなく、賢人は自ら修養に励み心の病にかからないように工夫し、常人は精神が薄弱で絶えずいろいろのことに悩みつかれているという意味にとれるであろう。

 この解説を読めば、なるほどと思う。常人である私は、今までに数え切れないほど現状を脱しようと思ったことか。思って試みたこともあったが、いつも続かなかった。高齢にいたってなお、賢人にはなれない。
 先々月、体調が芳しくなく、医者に診てもらった。どうも、生活習慣病になりかかっているらしく、節制をして2ヶ月後に再来院するように言われている。心して節制に努めているが、思わしい効果が出ているかどうか疑問だ。
 こういう自らの意思で何とかなる病などの場合も、この段の警告が当てはまるように思う。常人は自ら病を招く人、のようである。間食を控え、カロリーを抑えたバランスの良い食事をし、適度の運動をする。そうすれば、生活習慣病なんかにならないで済むのに、なかなかそれができない人が多い。常人が多いのだ。
 喫煙が体に悪いということが言われ、だいぶ喫煙人口が減ったようだ。喫煙しにくい環境になってきているにもかかわらず、依然として常人たらんとする意志の固い人が少なくない。今朝も投げ捨てられた煙草の吸い殻が、我が家の前に落ちていた。

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