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2008年8月20日 (水)

「言志録」 31

 準備万端整って、やむにやまれなくなって、蕾を破って外に咲き出すのが花である。(92)

 この項の「付記」に次のようにある。

 花は人にほめらるために咲くのではない。蜂や蝶のために咲くのでもない。自然に木や草の精気がこり固まって、やむを得ずして咲くものだ。山奥の岩かげに美しい花を見付けた時などは、どうしてこんな処にこんな綺麗なきれいな花を咲かせているのだろうとふと思うが、これはあまりに自分本位な考えだなあと思い返すことがある。
 吉田松陰が、
 「かくすれば かくなるものと 知りながら
   やむにやまれぬ 大和魂」
と歌ったのも、内にみなぎる大生命の発露であろう。
 我々の仕事や作品や行動も、内からほとばしり出るやむにやまれぬ精神の発露の場合、それは外からは花の如く美しく見えるものである。

 自然の摂理に驚き、感心することがしばしばある。開花も虫の鳴くのも、どういうわけか時いたって見たり聞いたりする。時に、花や虫の声に季節の到来を知らされることもある。これが「自然」なのだと、つくづく感じる。
 下手な横好きで、木を彫ったり絵を描いたりするので、制作に際しての動機、意欲、エネルギーといったものが大事だと思っている。その点で、題材を与えられて制作するものには、その題材に共感しない限りなかなか制作意欲がわいてこないことを経験している。スポーツ選手がよくモチベーションということを言うが、それが相当するのではないかと思う。やる気がなければ戦えないのである。
 孔子もどこかで言っていたように思う。「憤せざれば」なんとかと。つまり、やる気が起こらなければ教えない、ということを言っている。学習において「動機づけ」が大切なゆえんである。飴と鞭で動機づけをするのが、上手な指導者である。
 上にあげた「付記」の中で、行動についても同列にあげていることに注意したい。その行動が「内からほとばしり出るやむにやまれぬ精神の発露」であるなら美しく見えると言っている。不純な心、やましいところを持った行動は、美しくはない。しかし、社会で見かける行動の多くは、何らかの目的、魂胆を隠し持った行動だ。ボランティアという領域でもそういうことがあって、ボランティア不信に陥る。
 作品制作も、展覧会を意識して作るのは、どうもしっくりしないところがある。自然の成り行きでできたものの中で、出品してもよいものがあれば出す、そういう風にしようと思う。

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