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2008年8月30日 (土)

円空仏を模刻する

 小仏彫刻展に行ってきた。
Cimg0104 Cimg0106          いただいた案内はがきに、円空仏の無料体験のことが書いてあったので、この体験をしようと思って出かけたのだ。
 写真左が、この体験で彫ったもの。高さ13センチほど。ヒノキの角材を鉈で対角線に割って4分割した材料。見本の円空仏を見ながら彫るのだが、彫刻刀が印刀と平刀だけなので、うまくはいかなかった。
 写真右は、以前、写真を見ながら自宅で彫ったもの。高さ23センチ。杉の角材を対角線に2分の1に割って彫った。この経験があったので、体験教室では割合早く、一応掘り上げることができた。

 この小仏展には初めて行ってみたが、今回が6回目だそうだ。約220点の作品が、びっしりと展示されていた。特別出品の金剛界大日如来などの大きな作品や千体地蔵尊のように一つ一つは小さいが千体並んだ作品には圧倒された。各地の教室の生徒の作品が展示のほとんどで、レベルの高いことを実感した。多くは私よりはるかにレベルが高いようで、少数、私と同等レベルと思われるものもあった。
 体験教室のときに話しているのを小耳にはさんだのだが、この教室では多くは材料を先生から購入して彫るのだそうだ。しかも、ある程度きどってあるらしい。道理で同じような彫り物がいくつもあったのだと合点がいった。こういう彫り物では、模刻が基本として大事なこと。そこには、創造性が乏しくなんとなく深入りしにくい感じがするのだ。自分が思いついた「こういうカタチ」を彫ってみたい、ということのない世界だ。伝統的な美の形を踏襲することが大事なんだと思う。そして、彫ろうとする意欲の原動力は、「信仰心」なんだと思う。強烈な信仰心が、○○地蔵を彫ろう、○○仏を彫ろうという決意させ、一刀一刀に祈りをこめて彫り上げていく、そういう世界だと思った。
 その点で、私にはそこまで入り込めない。私の彫りものは、こんなものを彫ってみたいという気持ちに動かされて彫り始め、場合によっては、途中で姿かたちが修正されながら作り上げるというもの。しばらくは、こういうわがままなやり方のままでいこうと思う。

2008年8月25日 (月)

「言志録」 32

 己を失う(自信がなくなる)と、友人(社会の人々)を失う(信用をなくしてしまう)。人を失うと、何もなくなってしまう。(120)

 この項は、よく理解できない。自分を堅持することが大切なことは分かる。人を失うことが、何を失うよりも大変なことだということもわかる。しかし、どうもよく納得できない文脈なのだ。
 自信がありすぎるのも困ったもので、時々、不快にさせられることがある。いつだったか、書いたことがあったかもしれないが、ある俳優が「自信と謙虚の間」ということを言ったということを紹介したように思う。これが適当だと思う。自信は謙虚というオブラートに包んでおくぐらいが良い、と思う。
 この項の「注記」に、論語の中の一節を紹介している。これが面白い。

  ある人が孔子に「あわてものがいて転宅の際に自分の妻を忘れました」と言ったところ、孔子が「いやもっとひどい人がいる。自分自身を忘れている者がいる」と言ったということだ。

2008年8月20日 (水)

「言志録」 31

 準備万端整って、やむにやまれなくなって、蕾を破って外に咲き出すのが花である。(92)

 この項の「付記」に次のようにある。

 花は人にほめらるために咲くのではない。蜂や蝶のために咲くのでもない。自然に木や草の精気がこり固まって、やむを得ずして咲くものだ。山奥の岩かげに美しい花を見付けた時などは、どうしてこんな処にこんな綺麗なきれいな花を咲かせているのだろうとふと思うが、これはあまりに自分本位な考えだなあと思い返すことがある。
 吉田松陰が、
 「かくすれば かくなるものと 知りながら
   やむにやまれぬ 大和魂」
と歌ったのも、内にみなぎる大生命の発露であろう。
 我々の仕事や作品や行動も、内からほとばしり出るやむにやまれぬ精神の発露の場合、それは外からは花の如く美しく見えるものである。

 自然の摂理に驚き、感心することがしばしばある。開花も虫の鳴くのも、どういうわけか時いたって見たり聞いたりする。時に、花や虫の声に季節の到来を知らされることもある。これが「自然」なのだと、つくづく感じる。
 下手な横好きで、木を彫ったり絵を描いたりするので、制作に際しての動機、意欲、エネルギーといったものが大事だと思っている。その点で、題材を与えられて制作するものには、その題材に共感しない限りなかなか制作意欲がわいてこないことを経験している。スポーツ選手がよくモチベーションということを言うが、それが相当するのではないかと思う。やる気がなければ戦えないのである。
 孔子もどこかで言っていたように思う。「憤せざれば」なんとかと。つまり、やる気が起こらなければ教えない、ということを言っている。学習において「動機づけ」が大切なゆえんである。飴と鞭で動機づけをするのが、上手な指導者である。
 上にあげた「付記」の中で、行動についても同列にあげていることに注意したい。その行動が「内からほとばしり出るやむにやまれぬ精神の発露」であるなら美しく見えると言っている。不純な心、やましいところを持った行動は、美しくはない。しかし、社会で見かける行動の多くは、何らかの目的、魂胆を隠し持った行動だ。ボランティアという領域でもそういうことがあって、ボランティア不信に陥る。
 作品制作も、展覧会を意識して作るのは、どうもしっくりしないところがある。自然の成り行きでできたものの中で、出品してもよいものがあれば出す、そういう風にしようと思う。

2008年8月 7日 (木)

「言志録」 30

 できるだけ大所高所に目をつければ、道理が見えて、迷うことがない。(88)

 前回に続いて上に立つ者の心得として大切なことだ。いや、心得というより資質というべきか。これがない人が上に立ったのでは下の者がたまったものではない。

 「上に立つ者の道三十二箇条」というのがある。マツダの相談役だった岩澤正二という人の掲げたもの。以前取り上げたかもしれないし、今後fも取り上げることがあるかもしれないが、その中からいくつか抜き出してみる。
 1  向うところを明確に示せ。
  3  虚心坦懐、光風霽月、是を是とし、非を非とせよ。
 18 寡黙重厚、従容自若、眼ぼう厳正、挙止端正。

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