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2008年6月 1日 (日)

「言志録」 22

 少し長くなるが引用する。

 私の父は今年86歳である。側に人が多くいる時は、気分壮快で充実しているが、人が少ない時は急に気ぬけの御様子だ。
 私は思うに、子孫男女同志は体を同じゅうし、気を一にするものであるから、互いに頼み合って身も心も安らかになるばかりでなく、老人は元気が乏しいものであるから、人の雰囲気を得て、これを助けてあげれば、気分と体との調和がとれて元気づく。このことはちょうど、湯たんぽや保温剤を飲んで体を温めるようなものだ。これが、老人が人多きを好み、人少なきをいやがるわけである。
 これによって私は悟った。礼記の王制篇に、「人は80歳になると、人でなければあたたまらない」とあるのは、思うに、人の雰囲気であたためるということで、はだみに添う老女が必要であるというわけではないということを。(53)

 これを書いたとき一斎は42歳。自分の父親の観察から、礼記の一節に合点がいったということで、老人を取り巻く「人」の環境が大事なことを述べている。
 私が42歳の頃には、老人観察をしてその考察をするゆとりがなかった。今の私は、それより25歳も年をとっているが、80歳には間があるためか、「なるほどそのとおり」と思うところ「そうだろうか」と思うところが混合して受け取れる。
 今のところ「人多きを好み、人少なきをいやがる」感じはない。むしろ、あまり人が多く騒がしいのは、落ち着かない感じで好ましくない。特に、孫たちが来て騒がしく駆け回っているのには閉口して、自分の部屋にそっと逃げ込むくらいだ。「人恋し」という心境にはならない。いなくても趣味の木彫や水墨をやっていれば充実感があるし、本を読んでいても時間を忘れる。まだ若いからだろうか。
 若いからといえば、「はだみに添う老女」がまだ必要な年齢のようだ。老い衰えたことは歴然としているが、まだ男としての機能は残っているようで、女性に対する関心が強い(?)。強いかどうかは、主観的な尺度で、他の同年輩の男の平均値を把握しているわけではない。
 彫刻をやっていることと関係があるかもしれないが、街を行く若い女性、電車の中の女性につい目が行き、場合によっては観察する。折り込み広告や無料のファッション誌などに「これはいい」と思うものがあると、モデル用にとっておく。ヌードの女性を彫ろうとするときには、週刊誌などでヌード写真が載っているのを買ってきて眺める。
 それでもやはり、まったく周囲に人の雰囲気を感じない生活は苦痛だろうと思う。一斎がいうように、人の雰囲気によって気分と体の調和がとれているに違いない。年齢に関係なく、気楽に会話ができる人が必要だ。しかし、それはそんなに多い必要はない。私にとっては、それは「妻」であり「サークル」の人たちだ。
 気分が解放されたり高揚したりする一時を持つことができる。

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