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2008年2月17日 (日)

学習指導要領の改定案

 昨日の新聞に学習指導要領の改定案が発表されたという記事が載った。

 我が身にとってはどうでもよいことだが、老いの繰言をつぶやいてみる。「ゆとり」以前の時間数にもどるらしい。ゆとりの時間ということを言って時間数を削減したつけが、学力不足となって現れたための反省なのか?時間数を削った時点で、学力低下は十分予測できたこと。それが予測できないようでは、こういう作業に携わる資格がないというべきだ。

 世の中には、非常に頭のいい人がいる。1回か2回聞けば覚えてしまうというような、「脳力」の持ち主がいるようだ。そういう人は一部で、5回6回と反復してやっと記憶にとどめることができたり、10回反復しても習得できない者もいるのだ。この繰り返すということには、当然時間が必要。時間は多ければ多いほどいい。

 時間を削っても教え方が巧みならばカバーできるという、妄念を抱いている人がいるようだ。確かに教え方がよければ、学習者の習得はいい。しかし、その考え方に、学習者と指導者の人間関係を考慮すれば、どんなに優れた教授者でもよい結果を残すとはいえないということが抜け落ちている。学ぶ者が、教えるものに親近感や信頼感を持っていればいいが、教えるものを毛嫌いし、反抗心を持っていれば、いい結果はでない。教育の場は、器械制御のようにはうまくいかないもの。この、人間関係を滑らかにするのにも時間がかかる。いつぞや、テレビで乳幼児の言語学習が、器械でやるより直接人がやるほうがはるかに優れた結果を出すということをみた。それに通ずるものがある。人と人とのスキンシップが土台だと思う。

 私も学生時代にアルバイトで進学塾の講師をしたことがある。1クラス70人から80人の生徒だったが、生徒の食いつきがよかった。それは、私の指導がよかったからではない。生徒は、初めから習得を目的にそこに来ているのだ。来るのがいやならやめていく。つねに、学習しようという動機付けを持った状態で来ているのだ。このことは、学校と塾の大きな違いである。

教育が政治や経済の圧力で「ああやれこうやれ」といじられすぎる。ちょうど、振り子が行ったりきたりするように、同じ様な失敗を何度も繰り返す。これは、「不易と流行」のうちの、流行に目を奪われて、原理原則や本質を忘れた結果だ。かつて、ヨーロッパの教育視察を命じられて出かけたことがある。当時、日本では教育の弾力化、自由化ということが言われ、進められ始めていた。ヨーロッパはどうだったか。すでに弾力化、自由化の結果失敗した各国は,画一化に方向転換しているときだった。このことは、外国に出かけるまでもなく、書物で知ることができたのだ。私は、報告書に「なぜ今弾力化か」と視察の命令権者の意図に反することを書いた。

 神奈川県が日本史を必修にするという見解を発表した。いいことだと思う。現在、世界史が必修で負担が増えるのは考えものだが。そもそも、「世界の中の日本」をキャッチフレーズに世界史を必修にしたことが間違いだったのではないか。世界の中の日本をうたうなら、まずわが国をよく知らしめるところに力点を置かなければ、世界に羽ばたく人物を作れない。日本語をしっかり学習させ、日本の地理や歴史を習得させ、日本人としての知識や自覚を持った者を育てなくてはならないのではないか?

 老いの繰言は尽きないが、疲れるし、楽しくはないので、この辺でやめることにする。

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