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2008年2月29日 (金)

「言志録」 7

 前書きは前回から省略している。この連載記事の掲載経緯については、(1)をご覧下さい。

 心の奥底がふさがっていると、すべての考えも計画も皆誤ったものになる。(21)

 前回と通ずる内容である。精神的な状態は、ことがらの的確な判断の上で重要なことは言うまでもない。同時に、この精神、心理の状態は身体的状況に左右されるところが大きい。「言志録」では、23条の付記で、心だけでなく体の面も大切だということの例として、笛の名手のエピソードを紹介している。

 演奏を命じられ屋敷に呼ばれた笛の名手が、演奏予定時刻になってもその場に現れない。いらいらした家来が、「何をしているのか、殿を待たせて不届きだ」と演奏者を叱り飛ばすと、笛の名手は、「今朝から腹の具合が悪く何度か便所に行ったがまだよくない。今一度行かせてくれ」といって、悠然としていたという話。体調がよくなければよい演奏はできないというわけ。

 心と体は一つ。これはよく言われること。江戸時代後期の平戸藩主・松浦静山の「甲子夜話(かっしやわ)」という書の中に、老いの姿を詠んだ狂歌がある。

 皺がよる黒子ができる背がかがむ頭は禿げる毛は白くなる

 くどくなる気短になる愚痴になる思いつくこと皆古くなる

 一首目は身体の老化現象で、努力によって若干先延ばしができるものの、どうにも避けられない。二首目は、心がけ次第で何とか避けたり緩和したりすることができる老化現象だと思う。身体的老化は「無駄な抵抗」をして先に延ばし、精神的な若さを増進する努力をしたいものだ。

2008年2月26日 (火)

「言志録」 6

 そろそろ「まえがき」は省略して、いきなり「言志録」の口語訳文を引用する。

 頭脳が冷静ならば、正しい判断ができる。背中が暖かいならば、熱烈に人を動かすことができる。虚心坦懐にして我見がなければ、他人を容れることができる。腹が充実していれば、胆力が据わって物に動じない。人間はかくありたいものだということである。(19)

 少し意訳が過ぎる感がある。書き下し文は、「面は冷ならんことを欲し、背は暖ならんことを欲し、胸は虚ならんことを欲し、腹は実ならんことを欲す。」と、きわめて簡略な表現。両者を合わせて味わうべきか?

 人の上に立つ者は、かくありたいもの。どんな組織にしても、トップになると的確な判断、人の意見に心を空しゅうして耳を傾け、感化的統率力を示し、難局には断固たる決断をする、こういったことが必要だ。天性としてこういう能力を備えている者もいないでもないだろうが、多くは努力、修養によって指導者たる資質を備えるようになるのだと思う。

かつて、あるすし屋でトイレに入ったら、そこに「つもり条」というタイトルで10か条の言葉が書いてあった。面白いと思ったので、書き取っておいたが、その後この言葉が「つもり違いの10か条」ということで、ある対談の中で深瀬次郎(ヤナセ会長)が言っているのを見た。2箇所ほど、両者で単語の違いがあるが、すし屋で見かけたものによって紹介する。

1条 高いつもりで低いのは教養       2条 低いつもりで高いのは気位

3条 深いつもりで浅いのは知識       4条 浅いつもりで深いのは欲の皮

5条 厚いつもりで薄いのは人情       6条 薄いつもりで厚いのは面の皮

7条 強いつもりで弱いのは根性       8条 弱いつもりで強いのは我

9条 多いつもりで少ないのは分別      10条 少ないつもりで多いのは無駄

 「言志録」の人間はかくありたいということは、俗世間的な生活を送っている老人にとっては、そうなることは望ましいには違いないが、もはやそれほど努力目標にする気にならないこと。それよりも、「つもり違い」は日常生活の中で自戒、自省すべきものとして身近である。

2008年2月24日 (日)

「言志録」 5

 10年余り前、「言志録」を読みながら共感する条項をノートに抜書きしておいた。抜書きしたのは、書き下し文(原文は漢文)と口語訳。いま、それを読み返しながら、即興所感を書き付けている。今回、その5回目。

 人間はだれでも、次の事を反省し考察してみる必要がある。「天はなぜ自分をこの世に生み出し、何の用をさせようとするのか。自分は天の物であるから必ず天職がある。この天職を果たさなければ、天罰を必ず受ける」と。ここまで反省、考察してくると、自分はただうかうかとこの世に生きているだけではすまされないことがわかる。(10)

 訳注者の「付記」に、「自分は生きているのではない、生かされているのであるということ、これがわかれば立派である」とある。生かされているとわかれば、人のため世のために尽くさなければ甲斐がない。ここまでは頭の中でわかる。まだ十分にではないかもしれないが、この私にもかなりわかる。しかし、ここから先が、難しい。何をするか、自分に何ができるかということと、行動すること。

 人のため世のために色々な役割を担ってくれている人がいる。無償のサービスをしてくれるそういう人は「偉い」と、つくづく思う。」また、自分の特技や趣味を人々の前で披露している人たちもいて、これもすばらしいと思ったりする。こういう人たちは、ある程度自分の力量に自信があるからできるのだろうか?何をとってみても自分の力が乏しいことを知っている私には、「やりましょう」と請け負うことができない。中途半端なことをするに違いない、間違った事を教えるのではないか、人を不快にするのではないかなどなど、考えてしまう。

 こんな事を考えているうちは、「生かされている」ということを本当にはわかっていないというべきか。我を忘れて「出る」ようでなければ。

2008年2月21日 (木)

雛人形

 つい先日、妻が雛人形を出して飾った。

001 その少し前に風邪を引いて体調が芳しくないのに、「よくやるな」と感心する。還暦を過ぎてもなお「女の子」的要素を残している、それが女なのだな。おかげで一句できた。「古き雛飾りて妻は若やげり」

 所帯を持つと物が増えるというけれど、人形などの飾り物もその例。息子の破魔矢、五月人形、娘の羽子板、雛人形、妻の「送り雛」など。五月人形や雛人形には、段飾りのほかに兄弟などからケース入りの人形が何体か贈られたので、義理堅くすべてを飾るのは作業といい、スペースの確保といい大変だった。今は、簡略化しているが、それでも雛人形の段飾りは大変だろう。それだけではない。年間ほとんどは箱に入れて収納しておくわけだが、そのスペースも大変なもの。せっかくの収納スペースがこれでふさがっているのはもったいない。せめてほとんど日の目を見ないケース入りの人形だけでも処分したいと機をうかがっている。人形供養のような機会があったら出してしまおうと思っている。私の人形も昔はあったのだが、どうしたのだったか?改築や引越しの際に、捨ててしまったのだろう。

 そんなわけで、嫁いだ娘の送り雛も孫のための破魔矢、羽子板、五月人形、雛人形、いずれもコンパクトなサイズのものにした。三人目の孫の分は、同じようなものがあっても、と考えて現金を贈ってお祝いにした。こういう祝い事も、時代とともに変わっていく。これはこれでやむをえないことなのだろうか。

 

2008年2月18日 (月)

美術工芸展終わる

 彩の国いきがい大学東松山学園第21期生校友会美術工芸展が、今月12日から17日まで埼玉県立近代美術館で開催された。今日、作品の搬出に行ってきた。期間中、観覧者は、約800名だったということである。

002 私は、油彩画と銅板工芸を出した。写真は「ハイカー」という題の6号の油彩画。あんまり下手で、他の会員の足を引っ張った感じ。他の人たちは、油彩にしても水彩にしてもいずれもすばらしい作品だ。この絵は、ベニヤ板に描いたもの。油絵というと、布張りのキャンバスに描くものという先入観があったが、板でも紙でもいいようだ。柔軟性の欠けている私としては、もっと破天荒なことをやってちょうどいいのかもしれないと思うようになった。特にこういう芸術の分野では。長年の性格の殻を抜け出せるかどうか疑問ではあるが。

 この絵の額は、もちろんF6用の油彩画額である。今まで買った水彩・水墨・油彩の額の中で最も安いもの。3,000円しない。瑞穂町にある「ジョイフルホンダ」というところで買ったもの。広い展示スペースにありとあらゆる趣味に関する品物が並んでいる。これだけ需要があるということなのだ。いい時代にめぐり合わせて幸せである。

2008年2月17日 (日)

学習指導要領の改定案

 昨日の新聞に学習指導要領の改定案が発表されたという記事が載った。

 我が身にとってはどうでもよいことだが、老いの繰言をつぶやいてみる。「ゆとり」以前の時間数にもどるらしい。ゆとりの時間ということを言って時間数を削減したつけが、学力不足となって現れたための反省なのか?時間数を削った時点で、学力低下は十分予測できたこと。それが予測できないようでは、こういう作業に携わる資格がないというべきだ。

 世の中には、非常に頭のいい人がいる。1回か2回聞けば覚えてしまうというような、「脳力」の持ち主がいるようだ。そういう人は一部で、5回6回と反復してやっと記憶にとどめることができたり、10回反復しても習得できない者もいるのだ。この繰り返すということには、当然時間が必要。時間は多ければ多いほどいい。

 時間を削っても教え方が巧みならばカバーできるという、妄念を抱いている人がいるようだ。確かに教え方がよければ、学習者の習得はいい。しかし、その考え方に、学習者と指導者の人間関係を考慮すれば、どんなに優れた教授者でもよい結果を残すとはいえないということが抜け落ちている。学ぶ者が、教えるものに親近感や信頼感を持っていればいいが、教えるものを毛嫌いし、反抗心を持っていれば、いい結果はでない。教育の場は、器械制御のようにはうまくいかないもの。この、人間関係を滑らかにするのにも時間がかかる。いつぞや、テレビで乳幼児の言語学習が、器械でやるより直接人がやるほうがはるかに優れた結果を出すということをみた。それに通ずるものがある。人と人とのスキンシップが土台だと思う。

 私も学生時代にアルバイトで進学塾の講師をしたことがある。1クラス70人から80人の生徒だったが、生徒の食いつきがよかった。それは、私の指導がよかったからではない。生徒は、初めから習得を目的にそこに来ているのだ。来るのがいやならやめていく。つねに、学習しようという動機付けを持った状態で来ているのだ。このことは、学校と塾の大きな違いである。

教育が政治や経済の圧力で「ああやれこうやれ」といじられすぎる。ちょうど、振り子が行ったりきたりするように、同じ様な失敗を何度も繰り返す。これは、「不易と流行」のうちの、流行に目を奪われて、原理原則や本質を忘れた結果だ。かつて、ヨーロッパの教育視察を命じられて出かけたことがある。当時、日本では教育の弾力化、自由化ということが言われ、進められ始めていた。ヨーロッパはどうだったか。すでに弾力化、自由化の結果失敗した各国は,画一化に方向転換しているときだった。このことは、外国に出かけるまでもなく、書物で知ることができたのだ。私は、報告書に「なぜ今弾力化か」と視察の命令権者の意図に反することを書いた。

 神奈川県が日本史を必修にするという見解を発表した。いいことだと思う。現在、世界史が必修で負担が増えるのは考えものだが。そもそも、「世界の中の日本」をキャッチフレーズに世界史を必修にしたことが間違いだったのではないか。世界の中の日本をうたうなら、まずわが国をよく知らしめるところに力点を置かなければ、世界に羽ばたく人物を作れない。日本語をしっかり学習させ、日本の地理や歴史を習得させ、日本人としての知識や自覚を持った者を育てなくてはならないのではないか?

 老いの繰言は尽きないが、疲れるし、楽しくはないので、この辺でやめることにする。

2008年2月13日 (水)

言志録 4

 10年余り前に「言志録」を読み、共感するところを抜書きしておいた。いま、それを読み返しながら、所感を書き付けることにした。今回は、その4回目。

 志を立てて実績を上げるには、恥を知ることが肝要である。(7)

 講談社学術文庫の訳注には、訳注者・川上正光のコメントとして「恥は外からのものばかりではなく内心に恥じることもふくまれる」とある。「恥」という字は、辞典を引くと意味の最初に「きまり悪く思う。気がとがめる。自らやましく思う。」とあることから、内心に恥じることを中心に解釈すべきではないかと思う。外からの力によって恥じるのは当然であるし、難しいことではない。内心に恥じることこそ大事なのだ。

 「呻吟語」という書物の中に、「貧しいからといって恥ずかしがる必要はない。恥ずべきは、貧しくて志のないことである」とあるそうだ。この「貧しい」という意味も、経済的な意味だけではなく、精神的なものをむしろ考えるべきなのかもしれない。自分に足らざるところを知って,それを補おうとするところに「志」が芽生えるのではないか。

2008年2月12日 (火)

流氷の中を航海する

 冬の北海道旅行3日目。

 2日目の晩は、温根湯温泉の宿に泊まった。翌朝、出発が7時20分だというので忙しかった。外は冷え込んでいて、マイナス24度。枯れ枝は先端部分が凍ってキラキラ朝日に輝いている。川面も煙っている。

 Cimg0074紋別港を9時30分発の砕氷船「ガリンコ号」に乗って、一面氷に埋まったオホーツク海に出る。船首に掘削機のような螺旋形をした太い鉄の棒があって、これが回転して氷を砕きながら船が進む。時々雪が吹き付けて、遠景が見られなくて残念だった。寒い甲板に出て記念撮影をする者、船の周りを飛び回る海鳥をカメラに収めようとする者、一面の流氷に亀裂が入って船が進む様子を見る者などで、狭い通路がなお狭くなっていた。じっと客室内の遊覧席に座っている者は少なく、席を変えたり外に出たり。1時間あまりの航海だった。

2008年2月11日 (月)

層雲峡氷瀑まつりを見る

 冬の北海道旅行二日目の続き。

 今日の午前中のNHKの子供向け番組で、旭山動物園をやっていた。番組の録画のためなのか、人がほとんどいなくてゆっくり見学しているのを見て、本当にうらやましかった。私の場合、たとえばペンギンの水槽前は、30秒ずつで移動させられるほどの大混雑、大行列だったのだ。休日でもないのに。

 さて、動物園を見た後、層雲峡の「氷瀑まつり」を見た。

Cimg0055 大小さまざまな氷の建造物がある、という感じか?たとえば、雪で造った場合の「かまくら」にあたる大きなドーム。あるいは、「瀑布」にあたる氷の壁。あるいは、鍾乳洞のような氷の洞窟。こういった様々なものが人工的に造られ、夕暮れ時からライトアップされて、幻想的な景を作っている。観光客誘致のための、イベントアイデアマンの知恵だろう。

 ここは、寄付金100円で入場でき、甘酒の割引券と絵葉書がいただける。見学時間があまりなくて、甘酒をバスに戻る凍った道を歩きながら飲んだ。寒かったせいか、熱い甘酒はとてもおいしかった。

2008年2月10日 (日)

旭山動物園を見る

 冬の北海道旅行の二日目。

 雪祭りを見た晩は、定山渓に泊まる。翌日、二日目の最初は旭山動物園を見た。マスコミに取り上げられてから、にわかに人気が上昇し、この日もかなり混んでいた。しかし人気が高いこの動物園、意外に狭いし、動物も少ない。

 人気の原因は、見学スポットの新しさにある。水中のペンギンやアザラシをガラス越しに見たり、直近から動物を見たりする見方は、古い動物園にはなかった。しかし、人気が先行して、管理運営が追いついていない感がある。その最たるものがトイレの設備。バスガイドが注意していたように、数が非常に少ない。あちこちに簡易トイレが設置されているが、どこも列を作っている。トイレの順番を待っていて、集合時刻に遅れる観光客が多いことと思う。正門、東門、西門などの各門は、大きな建造にして、入退場に関する機能のほかに、トイレやみやげ物等の物産販売所にすれば、観光客はありがたいのではないか。簡易トイレの前を雪の上で待っているのは、つらいのではないか。

 人気の一つ。ペンギンの散歩も見た。所定時刻よりかなり前から見物人が「散歩道」の両側に詰め掛けて、大混雑が長々と続く。ここを、ペンギンが10羽ほど、「人間どもはなにをしているのかな?」という顔をして、目の前を通って行く。ペンギン様様、といった感じ。

 ペンギンの散歩も面白いが、それを見ようとして列を作って「お通り」を見ようとしている人々の様子も面白い。この両方とも撮影し、雪祭りの記事のように写真を1枚入れようとしたが、この機械が言うことを聞いてくれないので、紹介できない。

2008年2月 9日 (土)

札幌雪祭り

 ツアー旅行で、冬の北海道に行ってきた。

Cimg0011 札幌雪祭りの初日、2月5日。写真は犬山城。大通公園にたくさんの雪像がある。バスを西9丁目あたりで下車。そこからテレビ塔のあるにし1丁目まで大小いくつもの雪像を大急ぎで見てきた。見学時間が少なくて、ゆっくり見ている間がなかったのだ。人出も多くて、写真も撮影しにくいくらい。しかし、ライトアップされた雪像は、きれいだった。

2008年2月 4日 (月)

「言志録」 3

 10年ほど前に「言志録」を読んだ際、共感した条文をノートに書き抜いておいた。いま、それを読み返しながら所感を書き付けている。今回は、その3回目。

 学問をするには、目標を立てて、心を振るい立てることより肝要なことはない。しかし、心を振るい立たせることも外から強制すべきものではない。ただ、己の本心の好みに従うばかりである。(6)

 立志は学問の出発点として肝要であり、それは外圧によって強制されるべきものではない。立志なければ学は進まず、成りがたい。強制されればこれも同様。しかし、「本心の好み」は、自然発生的に芽生えるものではない。前回、「仕向ける」「動機付け」ということを言ったが、醸成ということが大切だ。人的、物的、諸々の環境の中で、芽生えてくるもの。そういう環境を用意するということは、人為的な面がないとはいえない。様々な環境を用意する中で、強制にならないように十分配慮しながら芽生えを待ち、芽生えを発見し、育てることが重要なことだと思う。理想的楽観論だが。

 実際には、そんな暢気なわけには行かない。時間やお金に限度のある厳しい生活があるから、かなり「本心」ではないところで妥協して、いわば志を曲げて道を選んでいる。これは、結果としてそうなっているということで、理想と現実のギャップである。ただ、本来あるべき姿を忘れてはならない。

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